戦争と平和

「もし日本が太平洋戦争で勝っていたら・・・」という題名のコラムを見て「オヤッ!」と目を疑った。

 アメリカの国土が二分され、日本とドイツが分断主導しているのである。滑稽なのは国旗である。
 第二次世界大戦時、旧日本帝国の東条英機や幹部達は真剣にこのような青写真を描いていたかもしれない。もしかすると、今の日本の政治家でさえ思い描いているかもしれない。

 しかし、現実は決して甘くはない。その後の日本は悲惨な道へと、時の内閣も軍部も、国民を誘導していった。結果、国のリーダーも国民も共に一直線に奈落の底へ落ちていったのである。

 有史以来、戦争で永遠に潤った国は無かろう。平和こそが人類の求める究極である。今一度、馬鹿げた戦争を思い出してみたい。

 2020年1月、Sさんから一冊のレポートが贈られて来た。
内容は「インパール作戦で、日本軍が凄惨な敗走をした地域への取材と現地調査」であった。

 Sさんは元教育界の現場で活躍した方である。長い事お付き合いをいただき、旅仲間、山仲間、飲み仲間として、私は末席でご高説を賜った一人である。

 今回、かねてからの念願であるインパールの現地で情報を得るために、インド東北部に旅をしてきたレポートである。地域の人々から多くの情報や真実を得て大変内容のあるものである。

 そして次回となる計画は2021年1月、今月である。もう既に出発しているかもしれない。今回は前回のインド側とは反対のミャンマー側に行くと言う。
 
 そう、日本軍が凄惨な敗走をした
「白骨街道」と言われるルートを辿るのではないかと想像する。インドもミャンマーもこの辺はまだまだ発展途上の地域であり、道路も劣悪、ましてやホテルも近代的ではなく、バックパッカー宜しく、中には寝袋や山道具まで背負っての旅の様だ。
 生々しい「白骨街道」や「チンドウィン川渡渉」の実態が知らされるかもしれない。

 私も様々の国を旅して来て、インパールの情報はそれなりに聞き、目にしてきた。例えばインド、隣国のミャンマー、バングラデシュに行った際も、日本人墓が現地の人に温かく維持されているのを目の当たりに見て頭が下がる思いであった。しかしながらインパールの核心部分には行けてはいない。

 旧日本軍も随分酷いことをしてきた。それらは日本人の一人として、後世に語り継いでいかねばならない。

 自分の復習も兼ねて再度戦争を思い起こしてみてみたい。

 無礼とは思われたが、Sさんのレポートの一部や、NHK制作の動画「インパール作戦の悲劇」、「朝日新聞のインパール従軍記者」の報告などを参考にして、写真や画像を中心にして時系列にまとめてみた。多少の相違点はご容赦願いたい。

  

   ☆S氏の現地報告抜粋

Sさんの「インド東北部コヒマへの道」レポートは専門的知識と地域からの情報が満載

赤印が今回の訪問地、次回は東のミャンマー地帯を踏査すると思われる。

第31師団長 佐藤幸徳のミャンマーでの宿舎はまだ残されていた。牟田口司令官にインパール攻撃は兵站なしでは無理、と言って解任された。この様に勇気をもって上司に直言する幹部もいた。
Sさんが、現地に足を運んで得た戦争の情報と写真は真に迫るものがある。

Sさんは教育者であり、写真家でもある。世界中を旅をしているがインドは10回目であると言う。土地の光景や特に人物に焦点をあてて何かを得ている。 並はずれた探求心と語学力を活かして、土地の古老や子ども達からも何かを掴む。

現地人と親しくなると、村の長老や家族の輪の中にも入り、友好的だ   当然、井戸端会議にも入りこみ戦争や日本人の情報を得てくる。

                           ☆以上、Sさんのレポートから借用

  

 ☆日本の戦争(対 外国)概略

 名称 相手国  年代 当時の日本の人口 被害人数        目的        結果
文永の役(元寇1回目)
鎌倉幕府
元(蒙古)と高麗(朝鮮) 1274  推定570万人   不明 蒙古が日本を属国にするため  神風(台風)で蒙古退散
弘安の役(元寇2回目)
鎌倉幕府
同上 1281  推定620万人   不明      同上      同上
文禄・慶長の役 李氏朝鮮 1592~1598  2200万人    22,000人 の征服を目指し 豊臣秀吉の死で日本軍の撤退
日清戦争 清国 1894~1895  4100万人   13,800人 朝鮮半島をめぐる権力競争

日本は清から領土(遼東半島・台湾・澎湖列島と多額の賠償金などを得ることになった。

日露戦争 ロシア帝国 1904~1905  4600万人 115,600人 三国干渉および義和団の乱後満洲を勢力圏としていたロシア帝国による朝鮮半島への南下(朝鮮支配)を防ぎ、日本の安全保障と半島での権益を確保することを目的とした戦争。 日本の連合艦隊は遠征のロシア・バルチック艦隊を撃滅し、ロシアも講和を決意した。 遼東半島租借権等を得た。
第一次世界大戦 ドイツ他 1914~1918  5200万人  300人 日本も日英同盟に基づいて、ドイツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として参戦 連合国の5大国の一国としてドイツが支配下に置いていた赤道以北の太平洋上の南洋群島を委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟常任理事国となった。

第二次世界大戦

連合国 1939~1945  7100万人 3,100,000人

満洲および蒙古の支配権を巡り次第に他国と対立ドイツの快進撃に近衛文麿政権は「バスに乗り遅れるな」として三国軍事同盟を締結し参戦する

日本敗戦 原因は絶対的な国力の差、戦略目標が曖昧、政治についてはアマチュアの域を出ない軍人が政権を握ってしまった、参謀教育の欠如等が云われている。

 ☆写真で見る戦争(風刺画)

         元寇
赤い部分
が蒙古の領土.緑の国
が属国
蒙古最大の時の皇帝「フビライ・ハーン」勢力図
    文禄・慶長の役  
     豊臣秀吉像
      日清戦争
魚(朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国、横どりをたくらむロシア(風刺画)
              
       日露戦争
      日露戦争の風刺画

    第一次世界大戦
工場で弾薬を作る労働者。銃後では女性や子供も戦争に動員された。

     第ニ次世界大戦

「ぜいたくは敵だ」と書かれたポスター(1940年)

  

    ☆第二次世界大戦(太平洋戦争) 地域別軍人戦没者数

   

   太平洋戦争戦跡地
戦没者の60%強140万人は餓死であった

この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が戦闘行動による死者、
いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。

 

         ☆太平洋戦争

 ●太平洋戦争のきっかけはアメリカの石油輸出規制!

 太平洋戦争時に日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をしたのは、日本の国家拡大に対する「アメリカの経済制裁」がきっかけ。

 北朝鮮に対するアメリカの経済制裁も同様、しかし北朝鮮はよく耐えていると言えよう。国民の生活は果たして・・・

 当時の日本はアジアの統一を目指し(実は領土拡大と言える)、中国との戦争を起こした。日露戦争時から日本に不信感を持っていたアメリカはこれを警戒し、石油の輸出制限をするなど経済制裁をかけてきた。日本はアメリカに制裁を解くよう交渉するが、日本は交渉中もアジア地域に侵攻。アメリカの信用は得られず、日本もまた無茶な提案をされたことで決裂した。その後日本はアメリカとイギリスに宣戦布告したのである。

     ☆太平洋戦争後半は苦戦の連続

1942年10月、ガダルカナル島の戦いにおいて壊滅した日本陸軍 1942年6月、ミッドウェー海戦で、爆撃を受け炎上する日本の空母飛龍

 ガダルカナル島の戦い1942年、ミッドウェー海戦と共に太平洋戦争大東亜戦争)における攻守の転換点となった。日本側は激しい消耗戦により兵員に多数の餓死者を発生させたうえ、軍艦、航空機、燃料、武器等多くを失った。

 ミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と重巡洋艦「三隈」を喪失する事態に陥る。艦船の被害だけではなく多くの艦載機および搭乗員を失ったこの戦闘は太平洋戦争のターニングポイントとなった。ここで大本営海軍部は、ミッドウェー海戦における大敗の事実を隠蔽する(大本営発表)。

  ☆侵略!

     太平洋戦争直前の日本の侵略図は中国と太平洋の島々 1942年には、フィリピン、インドネシア、ビルマを支配下に

  

  
 ☆旧日本陸軍、潮目を変えたかった・・・インパール作戦へと

太平洋戦争を挽回したく、中国に介入してきたアメリカ、イギリス軍との戦いでミャンマー、インドへ侵略開始。

時の内閣東条英機は、同期の河辺正三にビルマからインド攻略を託す。

河辺正三は牟田口廉也との盧溝橋事件のコンビ、ここに無能な上下関係が構築された。

終戦後、最も無能な指揮官と批判された。責任は取らず天寿を全うした。  司令部では部下に連日怒号、夜は率先垂範? して芸者遊び。

      ☆援蒋ルート(インパール作戦の目的)

 援蔣ルート(えんしょうルート)は、日中戦争に於ける大日本帝国中華民国の対立の際、主にイギリスアメリカソ連が中華民国を軍事援助するために用いた輸送路のことである。援蔣とは蔣介石を援助するためのルート

 中華民国の国民政府は、英米ソなどの援助を受けることで劣勢ながらも徹底抗戦を続けたため、日本は日中戦争勃発から第二次世界大戦の終戦までの長期間にわたり、100万以上の兵力を満州国を含む中国大陸に貼り付けて置かねばならず、国力は疲弊した

 日本はこのルートを破壊する目的でイギリスとの戦争を開始した。

イギリスがトラック雲南省昆明まで運ぶ輸送路
ビルマ公路)が最初の陸路。日本軍はこれを一時遮断。
  山脈を越えるレド公路の空撮画像
日本軍は密林を辿るが、イギリスはこんな立派な道路を造って、中国への通路とした。

  

 ☆旧日本軍、ミャンマーから侵入!

ミャンマー(当時はビルマ)は敬虔な仏教国 托鉢で修業するお坊さんの国は平和そのもの ピン・ウー・ルウィン(メイミョー)は人口25万の地方都市、日本軍はここに司令部を置いた

 メイミョーは標高1100m、軽井沢と同様。イギリス統制中は避暑地  牟田口司令官ら幹部は、この地で酒と芸者遊びを連日していた。

1944年3月~7月、無謀なインパール作戦は行われた。
日本からミャンマーの首都ヤンゴンへ、マンダレーを経由してインドのインパールへの計画であった。

ミャンマーの雨季は5月末~10月、先ず最初にこの時期に戦いを決めたこと自体が作戦の失敗である。この時期の雨季は想像を絶するほどなのである。日本の季節とは比較にならない。

   ☆作戦!

6師団を投入、3師団で攻める。しかしイギリス・インド軍はこの情報を得ていた。 太平洋戦争時、無線の暗号は殆ど連合軍に解読されており、ミャンマーからの密林越えで、日本軍が疲弊して来るのを理解していた。おびき寄せられたのである。

              
 敗戦撤退指令が出た時、いち早く逃げ出した木村兵太郎。次は牟田口廉也、3人の師団長はその前に左遷されていた。組織崩壊。

  

  ☆兵站 (食料や弾薬を補給

       羊を各師団で、1万頭        山羊も1万頭  馬も集められるだけ、村からも半強制的的に

牛も1万頭、各師団が食用に調達。しかし川で溺れ、崖から転げて谷底へ、殆どを途中で失って兵は飢餓状態となる。 像も調達したが、深い川と流れがきつく、勝手に戻ってしまった。

 日本は「兵站」で敗戦した、それは最初から分かっていたことである。

「兵站」(ヘイタン)とは、前線の部隊に食料や弾薬を補給する任務。日本の太平洋戦争の後半は、殆どの地区でこの兵站が不可能であった。
 ましてやその業務を担当するものは痛切に理解していて上司に訴えても「根性」とか「卑怯者」、「大和魂はあるのか」「貴様は臆病者」と言われた。

 この頃は、アメリカの経済封鎖で、日本は石油が入らず、ましてやアジアの占領地がドンドン奪われ、日本は八方ふさがりであった。現在、アメリカが北朝鮮に対する経済封鎖と同様であったのである。

 時の首相である東条英機やリーダー達は理解しようとはしなかった。日清戦争や日露戦争で勝利したので慢心していたのかもしれない。明治時代と昭和時代の世界の変化と状況を把握していなかったともいえよう。

 だが、軍部には情勢を適格に判断出来る幹部もいて、上司に直言した者も多数いたが、それらの人物は全て左遷されたり、役職を追われていた。組織が機能しなくなっていたのである。

 俗に言うところの「魚は頭から腐っていく、組織もまさに同じである」

 かくして、牟田口→河辺→寺内→杉山→東条→天皇ラインが、「冷静な分析」よりも組織内の「人間関係」や「温情論」で上奏、認可され、日本の不幸な歴史へつながっていった。

  

 ☆戦争は男も女も・・・

    メイミョーの慰安所 多くの慰安婦が騙されて、いろいろの国からも     敗戦後、解放されたが・・・

  
 ☆メイミョーの生活、風刺画

  

  ☆進めつ!

 かくして日本軍はインパール目指して・・・大河のチンドウィンへ

   乾季は長閑な川だが、雨季は大変な暴れ川

 日本の戦争の手法は・・・

 戦争の前半で優位なときは、側背攻撃で、兵力、弾薬、装備、資材、糧抹が十分で、協力部隊(航空機、戦車、砲兵部隊)の支援を期待でき、小さな力をもって、より大きな力に対抗する唯一の戦法であった。

しかし、インパールではその余力は全くなかった。

 ジンギスカンは遠征の軍をおこすにあたって、常に多数の家畜を連れていったが、その故智にならって牟田口将軍も大量の牛、馬、象を作戦部隊に同行させた。

 しかし、牛300頭は川を渡れず、200頭がようやく渡ったが、密林を歩くことは不得手で谷底に落ちたり、兵士によって食用にされた、馬も半数に減り、象は本能なのか川は渡らずに殆どが自分で引き返していった。

 かくしてジンギスカン手法は失敗した。

  大河チンドウィンを渡渉出来ても川はまだまだあった。 食料となる動物は川と密林、山の渓谷で失い、大砲やトラックも失い最後は人力だけで兵は疲弊していた。

司令部のメイミョーからインパールまでは470km、東京~名古屋までの距離、途中からは密林地帯である。

    行きはよいよい、だが帰りは恐い、インパール作戦

  ☆ミャンマーの現地人は・・・

日本軍が、現地人から食料調達で使用していた 「軍票」というお金。敗戦で紙切れとなった。 ミャンマーから強制的に調達、村人は途方に暮れた。

 戦争という傍若無人

 日本軍はミャンマーにおいて、結果的に使えないお金(軍票)でニワトリや食料、牛や馬までをほぼ強制的に調達し、結果それらは返されず、現地人に多大な迷惑をかけたのである。

イギリス・インド軍は作戦として、日本軍がミャンマーから攻めてくるのが分かっていた。そうすると密林やジャングルを超えて大きな川や谷も超えて来なければならない。太平洋戦争で負け続けている日本軍は「兵站」が底をついているので、インパールまで引き寄せて一気につぶす作戦であった。   急流の川で、調達した食料や動物が殆ど流され、密林や急峻な崖で残りの動物は谷底へ落ちていった。
数少ない戦車やトラックは、解体して運んだが急峻な崖で馬も人間までが落ちていった。
 作戦で既に日本軍はイギリス・インド軍に負けていた。

  

   ☆戦いは始まった!

31師団は何とか目的の「コヒマ」に到達したが、15師団、33師団共にインパールには誰一人たどり着けなかった。英軍の猛攻! コヒマまでは行けたが、英軍はインパールにおびき寄せ近代兵器で迎え撃つ作戦、日本軍はまんまと騙されていた。完璧な情報作戦に負けていたのである。

 コヒマの三叉路近くの「テニスコートの戦い」は、一番の激戦地となった。3000人もの日本兵が死亡、もう余力はなかった。

日本軍は兵器が不足すると、ドラム缶など音の出るものを叩いて抗戦 なんでも揃うイギリス軍、日本は何処でも負け戦、それでも突撃!

イギリス軍は空輸で兵器、食料、水までも調達。一方日本は飛行機も兵器も食料もない

日本軍は既に食料が尽きて、兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化していた 3師団は総崩れ、牟田口司令官は3師団の師団長を解任したが無駄!

牟田口司令官は戦況厳しくなり、インパールに近い「インタンギ」に本部を移したが好転するわけがない。気合だけでは・・・ 日本軍は武器弾薬も尽きて、木や竹を叩いて勇ましく(?)最後は石を投げて抗戦、まるで江戸時代以前の戦国時代の戦いである。

     ☆目的地のインパールには誰一人たどり着けなかった

 第二次世界大戦初戦では、大日本帝国にビルマを追い出された連合国の反攻拠点となったのがインパール。 しかし、兵站を無視した無謀な戦略で、大日本帝国陸軍は大量の死者を出し、ビルマ戦線は崩壊した。連合軍に対するアジアでの優位が失われ、以後ビルマを失い南方戦線は崩壊する。  インパールは現在人口26万人の町

  

  ☆敗走!

立ったまま死んだり、座ったまま死んだり、雨が多いので数日で白骨化する。  撤退路には少数民族の村が点在する。 村人の多くの人が「軍服を着た日本兵をよく見るが、近づくと消えてしまう」と言う。亡霊である。

 13,577人の戦没者名簿があるが、後は不明
 赤印が戦死、青印が撤退中に飢餓や病気で亡くなった。

5月、撤退命令。重いので小銃は谷へ投げて英軍の追跡から逃げた。      飢えや病気で倒れる兵が続出。まさに地獄。

絶望して剣を心臓にぶち込む兵や崖から飛び込む者もいた。  豹や寅、倒れるとハゲワシが襲ってくる。 倒れた兵のほほ肉を食べたり・・・地獄であった。

 敗走・・・

 敗走する第十五軍にとっての第一の難関は、英印軍の追撃を振りきり、どのようにしてカボウ谷地に逃げこむかであり、第二の難関は、そこからカボウ谷地を抜けて、チンドウィン河をいかにして渡るかであり、第三の難関は、渡河後、シュエボーを中心とする北ビルマ平原にどのようにしてたどりつくかであった。

  

  ☆白骨街道

撤退中、最も過酷であったのが ①~③の白骨街道、殆ど山や谷の連続でジャングル。

喉が渇いてその辺の水を飲むと、アメーバー赤痢で1~2日でみんな死ぬ 撤退時、食料は生えている菜の葉にわずかな米、それは
「ホタル飯」と云われた。

  10mの間に4~5人の死体、暗い時は白骨の白さが目印となる。         体力と精神力だけが頼りの逃避行

村人のお婆さんは云う。赤痢で下痢をしている兵隊さんが可哀想で、お尻を葉っぱで拭いてあげましたと。情けが身に染みる日本兵。

 インパールの現地部落の日本観

 「日本の兵隊は私たちの婦女子に決して悪いことをしませんでした。
 食物を奪いとられたことはありましたが、激しい空腹に負けるのは、それは仕方がないと思います。
 英印軍のなかには私たちの婦女子にずいぶんひどいことをしたのも少くありませんでした。

      戦争は味方さえ殺してしまう。 一般の兵隊は殆ど亡くなった。しかし上層部は生き残った。

白骨街道を何とか生き抜いてきても、この川幅600mの大河チンドウィン川を渡れず亡くなる兵が多かった。力尽きたのである。殆どの船は破壊されていた。

   運が良く仲間が沢山いると、筏を作り渡ることが出来た        越すに越せないチンドウィン

 第33師団(弓)
  柳田元三少将
 第15師団(祭)
  山内正文中将

 第31師団(烈
  佐藤幸徳中将

 軍直轄他  合計
参加兵    17,000人   16,000人    16,600人  40,400人  90,000人
残存兵     2,200人    3,300人      5,000人   1,500人  12,000人

傷病者死亡7万8千人、最終帰還兵1万2千人

  

  ☆責任のなすり合い

多くの兵隊を死亡させ、本部から撤退を通告されると、いち早くミャンマーの地から逃げた牟田口司令官。 太平洋戦争では最も卑怯な大将として歴史に残った。

牟田口廉也の人となり・・・

 死去までの約4年間はインパール作戦失敗の責任を問われると戦時中と同様、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張していた。

 また、兵士たちへの謝罪の言葉は死ぬまで無かった。8月4日に行われた自らの葬儀においても、遺言により、自説を記したパンフレットを参列者に対して配布させた。

 ある参謀に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した(もとより慰留を期待しての事とされる)。これに対し参謀は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」と苦言を呈され、あてが外れた牟田口は悄然としたが自決することなく、余生をまっとうした。

 インパール作戦失敗後の7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部将校たちを集め、泣きながら次のように訓示した。「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」。訓示は1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることが出来ない幹部将校たちは次々と倒れた。

     牟田口司令官の言い訳書           大本営の言い訳

 戦いの総括・・・

 終戦後、牟田口廉也第15軍司令官は上からの命令だったと云い、一方大本営は前線の司令官の責任でインパール作戦を行ったと、責任のなすり合いをした。

 「国家の指導者層の理念」は無かったのである。

                これぞインパール!

  

   ☆インパール近隣国の今!

 海外旅行で145ヵ国を巡った。
インパールに関係するインド、バングラディシュ、ミャンマーでは貴重な体験もした。お寺のお坊さんが毎日供養してくれていたり、お墓も維持してくれていた。

 インドの中年のガイドからは、チャンドラ・ボースが日本に大変お世話になり、イギリスからの独立が出来て、日本には大変感謝しているとも言われた。

 その他、アジアの各地で日本兵の苦労話を聞かされた。グアム島の横井さんの洞穴も見た。戦争の悲惨さを嫌というほど見てきた。老いも若きも自覚せねば、政治家はもっと・・・

          インド・・・独立の貢献者

  マハトマ・ガンディー    ジャワハルラール・ネール   スパス・チャンドラ・ボース

インドの現地ガイドは、大学を出てNO1のツアー会社の社員となる。熱くインパール問題を語ってくれた。       ツアー会社の幹部。
インド国内ではチャンドラ・ボースが一番の人気ですと言う。日本との関係を作った重要な人なのです、と。

 スパス・チャンドラ・ボース

インドでは、同じ独立運動家のマハトマ・ガンディーや、初代首相のジャワハルラール・ネルー以上に偉大な人物とされ、インドを独立に導いた英雄としてインド国民から最も敬愛されている。

インドの南国ケララ、ハウスボート内で、夜も更けるまでガイドの二人とインパール、そしてインド独立時と日本の戦争で貴重な話を聞くことが出来た。

 インドの独立貢献者

  1. マハトマ・ガンディー 1869年~1948年。弁護士、宗教家、政治家。イギリス留学

   非暴力主義で独立を指導、ヒンドゥー原理主義者により暗殺される。

  1. ジャワハルラール・ネール 1889年~1964年。弁護士、イギリス留学娘のインディラ・ガンディーは第5・8代首相、孫息子のラジーヴ・ガンディーは第9代首相となるが二人とも暗殺された。非暴力主義で独立を指導
  1. スバス・チャンドラ・ボース 1897年~1945年。イギリス留学、インドの高級官僚合格、父親は弁護士。ドイツ、イタリア、日本、ソ連で独立運動。飛行機事故で死亡 (武力による独立主義

 三人共にイギリス留学し、エリートの出身であった。
 何故、チャンドラ・ボースが国民に人気があるか、他の二人が「非暴力主義」ということで表に出なかったが、ボース一人が行動を起こしやがて革命につながったので、国民からは絶対的に人気がある。

 これはキューバにも云える。カストロやチェ・ゲバラが国外で人気があるが、国内では圧倒的にカミロ・シェンフェゴスが人気絶大である。聞くと見るでは相違がある。

           □ミャンマー

  元はビルマ       敬虔な仏教徒の国、バガンのタビイニュー寺院

男も女も子供も、皆が托鉢で修業。 女の子だけの托鉢で市場で施しを貰う。

  ☆バガンのタビイニュー寺院日本兵士のお墓を維持管理)

       寺院の一角に第33師団の慰霊堂がひっそりと        弓部隊の墓

       33師団は柳田師団長    このお坊さんが専属でお墓を守ってくれていた。

    □バングラディシュ

南方のチッタゴンに日本人墓がある        イギリス軍のお墓は広々

     日本のお墓は隅の方で一個だけ              英語で表記されていた

  

 終わりに・・・

 最近、国会で野党質問者が首相に「魚は頭から腐る」と強烈でタイムリーな批判をしていた。確かにここ数年首相を取り巻く疑念は絶え間ない。桜、加計、森友、官僚による忖度・・・挙げればきりがない。国民はもう辟易している。取って代わるべき人材もいなければ、野党にも頼れない実態である。

 一方、民間企業も同様に不祥事が多すぎる。三菱自動車、東芝、旭化成、かんぽ生命保険、東電、ゴーン一の日産等々。大企業の幹部になれば安閑としていて危機管理が薄くなるのであろう。

 あるコンサルタントの著書では「会社は頭から腐る」という。経営が悪化した企業に共通していたのは、「一流の現場を持ちながら、経営が三流だったこと」と書かれていた。

 また、「発酵」と「腐敗」という話が興味深い。この2つの基本は同じで、微生物が様々なものを分解して起こる現象だ。それが人にとって役立つものとなれば「発酵」となり、無駄なものとなれば「腐敗」となる。

 「発酵」と聞くと日本酒やワイン、醤油や味噌など、様々な現場で懸命に現場が日々研鑽している。こちらも組織である。小さいだけである。しかしながら組織が大きくなると上が「腐敗」してくる。これらを正常にするには現場の者が、油断しているトップ集団を正常になるべく「発酵」させなければならない。

 今回の帝国陸軍の組織は、典型的な腐敗構造であろう。危機管理がなかった典型的な例である。世の中にはこのような組織が多すぎる。やがて歴史は繰り返されるかもしれない・

                                        終わり

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