癒しのクラシック

 2020年2月14日、この日は奇しくもバレンタイン・ディーであった。プレゼントは普通はチョコレートなのであろうが違った。

 コロナというウイルスをどうやら中国の方が置き忘れたらしい。北海道札幌市は雪まつり真っ最中。この雪まつり会場でウイルスが拡散し、次々と伝染していき2月18日からほぼ毎日感染していった。

 行動の制約が始まった。居酒屋も、人が集まるサークルも禁止となった。
止む無く、部屋で大人しくするためには読書、音楽、酒を飲む・・・

 クラシックに改めて親しもう、ということで作曲家とその代表曲の研究から始めた。そして毎日じっくりユーチューブで、大音声で聞くことになった。

 21世紀のコロナ・ウイルス事件はとどまるところを知らない。これを機会に多くの本を読むのも一興、音楽に浸るも良いだろう。知識は邪魔にはならない。災い転じて福と出来るか、神のみぞ知る。

・バッハ  ドイツ、1685年生まれ、「音楽の父」

   バッハはオルガンの名手、バッハは生涯に2度結婚し、十一男九女の20人の子供をもうけた 

 代表曲 

  トッカータとフーガ トッカータとはオルガンやチェンバロの調子、調律を見るための試し弾きといった意味
   が由来。
フーガとは対位法を主体とした楽曲形式の1つ。始めのメロディー:チャララン、チャラララン)

 ・G線上のアリア ヴァイオリンの4本ある弦のうち最低音の弦、G線のみで演奏できることに由来する。
         
    YouTube   バッハ「G線上のアリア」

・モーツアルト オーストリア、1756年生まれ、明るく楽しく軽快な曲が多い。神童

・マリー・アントワネットに「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話がある。

・どこの宮廷でも就職活動に失敗する。理由はモーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕

 事に恵まれなかった。

・モーツァルトの天才に恐れをなしたイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害した。

・猥談を好んだ。

・妻のコンスタンツェは、愛のない、不実な、不精な人物として描写されている。悪妻の一人とされている

代表曲

 ・アイネ・クライネ・ナハトムジーク・・・小さな夜の曲という意味。

 ・トルコ行進曲・・・オスマン帝国の軍楽隊の音楽に刺激を受けて作曲した行進曲

 ・フィガロの結婚・・・オペラ 

 ・ピアノ協奏曲第22番・・・こんにちわ赤ちゃんに似ている
 ・「交響曲第40番」・・・悲しみのシンフォニーとも呼ばれる名曲(チャンチャリ、チャンチャリ、チャンチャ)

         YouTube  モーツァルト 交響曲 第40番

 ・交響曲第41番「ジュピター」・・・ジュピターとはローマ神話の最高神ユーピテル、荘厳な雰囲気に圧倒される。

ベートーベン  ドイツ、1770年、日本では「楽聖」、後世の音楽家たちに多大な影響を与えた。
  22才の時ハイドンの弟子、ピアノの即興演奏の名手、20代から難聴、40歳頃から全聴、58才で亡

  ・葬儀には2万人もの人々が参列、宮廷や有力貴族に仕えることを拒否し大衆に向けた作品を発表し続けた。

  ・ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピ
   アらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた

  ・「キリストなどただの磔にされたユダヤ人にすぎない」と発言。

  ・60回以上引越し、変わり者、潔癖症、癇癪持ち、大変なプレイボーイで梅毒を患った。

  ・父親(音楽家)に似て大の酒好き、コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れた

  ・貴族でなかったので求愛しても実らなかった。

代表曲
  ・「エリーゼのために」・・・テレーゼはかつてベートーヴェンが愛した女性。エリーゼは字の間違い。

  ・ピアノソナタ「月光」・・・弟子であり、恋人でもあったジュリエッタ・グイチャルディに捧げられた曲

  ・ピアノソナタ「悲愴」・・・人生の様々な悲しさを経験したベートーヴェンの魂から発露した名曲

  ・ピアノソナタ第12番『葬送』・・・ある英雄の死を悼む葬送行進曲

  ・ピアノソナタ第23番『熱情』・・・難聴が進んでしまい、作風が大きな転換点を迎える時期の作品

  ・交響曲第3番『英雄』・・・フランス革命後のナポレオンを讃える曲

  ・交響曲第5番『運命』・・・ヨゼフィーネ伯爵夫人との恋愛が身分相違で破局、「ジャジャジャジャー
       ン」と「運命の扉をたたく音」で表現。また「鳥のさえずり」が「ジャジャジャジャーン」のきっか
       けとなったそう

  ・交響曲第6番『田園』・・・ベートーヴェンがこよなく愛していたウィーン郊外の田園風景

           YouTube  ベートーベン作曲 交響曲第6番「田園

  ・交響曲第7番・・・人気のある曲で、リズム重視の生命力にあふれた交響曲

  ・交響曲第9番・・・日本では年末の曲、歓喜の歌

  ・ピアノ協奏曲第5番変ホ長調『皇帝』・・・ナポレオン率いるフランス軍によってウィーンが占領される
       前後に手がけられている

ショパン ポーランド、1810年生まれ、「ピアノの詩人」、紙幣に肖像が使用、空港に名前を使用、
      父はフランス人。

  ・わずか7歳の「ショパン少年」は公開演奏を行うようになり、瞬く間に神童と言われモーツァルトやベートー
   ヴェンと比較されるようになっていった。父母、姉も音楽に親しむ。「ワルシャワで最高のピアニスト」と
   絶賛された。

  ・バッハやモーツァルト、ベートーヴェンですら、同じような年頃には初心者の域を脱しなかったのに対し、シ
   ョパンは貴族や聴衆から既に来るべき時代の行方を示す大家として受け入れられていたのである。

  ・ショパンの初恋は19歳の時。ワルシャワ音楽院の同学年で声楽科に通うポーランド娘のコンスタンチア・グ
   ワトコフスカ
だが、告白はできなかった。この時の曲が「ピアノ協奏曲第2番」

  ・マリアヴォジンスカ (ショパン26歳、マリア17歳) 結婚を約束していたが破局。教え子の姉妹

   この時の曲が、葬送行進曲、ワルツ第9番(別れのワルツ)   

  ・男装の作家ジョルジュ・サンド、子供が二人いたが、多くの男性をもてあそんだといういわくつきの女性で純
   情なショパンとは正反対、献身的な母性愛で同棲生活7年が続き、多くの作曲を残した。

  ・4度目の恋:絶世の美女ポトツカ伯爵夫人、ショパンは夫人にピアノを教える友人として、20年間付き合っ
   た。彼女のために≪ワルツ第6番(子犬のワルツ)≫をポトツカ夫人に捧げた。

  ・葬儀には3,000人近くが参列したが、その中にジョルジュ・サンドの姿はなかった。

  ・生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家

  ・大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。

 代表曲

 幻想即興曲・・・自由な形式で書かれた曲、映画・アニメ・ドラマなど多くのシーンでもこの曲は使われている。

 華麗なる大円舞曲・・・作品はピアノの弟子、ローラ・オースウォードに献呈された。

 葬送行進曲・・・死の甘い誘いに身を任せて美しい花園(中間部の回想)に吸い込まれるように最期を遂げるよう
        な・・・

 子犬のワルツ・・・子犬が自分の尻尾を追いかけてくるくる回っている情景をピアノで表現したもの

 革命のエチュード(ロシアによるポーランド侵攻から、ポーランドの独立運動が弾圧されて抗議)

 別れの曲、ノクターン第2番

 雨だれ(恋人のジョルジュ・サンドとマジョルカ島にいたときに作られたもので、たまたまその時雨季だった一定
    のリズムで刻まれる音がまるで雨だれのよう)

 英雄ポロネーズ(ポロネーズとは「ポーランドの」という意味のフランス語)

                            YouTube          フジ子・ヘミング~英雄ポロネーズ【ショパン】

 別れのワルツ(恋に落ちることとなった婚約者マリアに捧げられたもの)

・チャイコフスキー  1840年、ロシア、リズムの天才、同性愛者

    ・チャイコフスキーの兄弟姉妹は後年にいたるまで仲が良く、チャイコフスキーを支え続けた。

    ・23才、音楽家としてのスタートは他の作曲家と比べて非常に遅いものとなった。

    ・「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」の3曲はチャイコフスキーの三大バレエとして知ら
      れている。

    ・欧米において「くるみ割り人形」はクラシック音楽の(クリスマス期)の定番(日本における「第九」の
      位置付け)

    ・28才の時、ベルギーのオペラ歌手デジレ・アルトーと恋に落ちたが破局

    ・37才、結婚したが失敗、自殺未遂。この年、バレエ『白鳥の湖』が完成した。

    ・53才コレラで逝去、ロシア皇帝アレクサンドル3世によって国葬が決定。

    ・白鳥の湖、ピアノ協奏曲第1番、交響曲第6番『悲愴』等が演奏不能と当時は否定された。

    ・ピアノ協奏曲第1番・・・初めて作曲したピアノ協奏曲

    ・交響曲第6番「悲愴」・・・本人は「この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ」と語るほどの
     自信作だった。

    ・チャイコフスキーの偉業を記念し、ロシアでは数々の音楽学校や楽団、コンクールなどにチャイコフスキ
     ーの名がつけられている。

 ・代表曲

   ・ピアノ協奏曲第1番 (ポポポポウ、ポポポポウ~とホルンが響く) 

       YouTube  ピアノ協奏曲第1番

   ・バレエ音楽『白鳥の湖』、バレエ音楽『眠れる森の美女』、「くるみ割り人形」

                   YouTube  チャイコフスキー くるみ割り人形 名曲集フル バレエ組曲

   ・ピアノ三重奏曲・・・旧友への追悼のために作られた音楽。一貫として悲しく、荘厳な曲調。副題には『偉大
    な芸術家の思い出に』とつけられている。

   ・弦楽4重奏曲第1番・・・チャイコフスキーの初期の作品

   ・弦楽6重奏『フィレンツェの思い出』・・・チャイコフスキーが作曲した最後の室内楽曲

   ・弦楽セレナーデ・・・管楽器が抜けた形態のオーケストラ

   ・ヴァイオリン協奏曲・・・ベートーヴェン・メンデルスゾーン・ブラームスの三大ヴァイオリン協奏曲に加え
    られて4大ヴァイオリン協奏曲とも言われる。

   ・交響曲第4番・・・1877年にヴェネツィアを訪れたチャイコフスキーは、当地の風光明媚なスキャヴォーニ河
      岸
にあるホテルにてこの曲を書き上げた。この時期、メック夫人がパトロンになったことにより、経済的
     な余裕が生まれた。これによってチャイコフスキーは作曲に専念できるようになり、これが本作のような
     大作を創作する下地となった。このことに対する感謝の意を表して、本作はメック夫人に捧げられた。

        YouTube   交響曲第4番

   ・交響曲第5・・・チャイコフスキーの作品は聞く人が赤面してしまうほど情緒的。聞けば彼が何を考えてこの
    フレーズを作り出したのかわかってしまいそう。第一楽章のクラリネットによる『運命の動機』に始まる暗
    澹性。第二楽章のホルンの美しい調べ。第三楽章のワルツ。第四楽章の豪快さ。まさに名曲。

          YouTube   交響曲第5番

   ・大序曲「1812年」・・・1812年はナポレオンのロシア遠征が行われた年、これを描いた曲となっている。

   ・交響曲第6番「悲愴」・・・『悲愴』作曲時には過去を思い浮かべたのか、それとも当時もうつ病を患って
    いたのか、うつ的な精神状態を曲に反映させているのではないかという説がある。

        YouTube   交響曲第6番「悲愴」

・ハイドン オーストリア  1732年生まれ 交響曲の父、弦楽四重奏曲の父 

・弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。

・弦楽四重奏曲第77番(第62番)の第2楽章にも用いられた皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の旋律は、
 現在ドイツ国歌(ドイツの歌)に用いられている。 

・28才、マリア・アンナ・ケラー(モーツァルト夫人のコンスタンツェ、チャイコフスキー夫人のアントニナと共
 に、音楽家の3大悪妻に数えられる)と結婚した。

・長くハンガリーの貴族の元、楽団で働いた。そこで多くの曲を作る。

・1781年頃、ハイドンはモーツァルトと親しくなった。この2人は互いの技量に尊敬を抱き、モーツァルトが1791
 年に死去するまで友情は変わらず続いた。

・ハイドンの作品はほぼ全てのジャンル(オペラから民謡の編曲に至るまで)を網羅しており、膨大な作品の総数は
 およそ1000曲に及ぶとされる。

 代表曲 

 ・弦楽四重奏曲「ひばり」・・・第1楽章冒頭の旋律がひばりの鳴き声を思わせる

                                     YouTube     ハイドン『ひばり』

 ・交響曲第番94「驚愕」・・・突然にトランペットが大音量でその静けさを切り裂き、オーケストラ全体が大音量の
  和音を演奏することから驚愕と副題がついた。

 ・交響曲第100番「軍隊」・・・「軍隊」という愛称は、有名な「トルコ軍楽」の打楽器(トライアングル、シンバ
  ル、バスドラム)が第2楽章と、終楽章の終わりで使われていることによる。

 ・交響曲第44番「悲しみ」・・・ ハイドンはこの曲を自分の葬儀の時に演奏してほしいと言っていた 

             YouTube   交響曲第44番「悲しみ」

・シューベルト  オーストリア  1797年生まれ  31才没  歌曲の王

  ・父は教会の教師でアマチュア音楽家、母はウィーン人家族のコックをしていた。13人の
   家族。

  ・ベートーヴェンと知り合う。 ベートーヴェンはシューベルトの才能を認めていた。

  ・死後、本人の希望でシューベルトの墓はベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。

  ・ハンガリーの貴族の家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が彼の体内に蓄
   積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも言われている。

  ・詩はゲーテの物が多い。

  ・シューベルトの身長は154㎝だったという。かなりのチビであり、体型はずんぐりで、頭が大きく、首が太く短い。丸く突き出た広い額、張り出した顎。濃い眉毛、茶色の瞳、やや上を向いた団子鼻、豊かな褐色の巻き毛が頭部を覆っていた。寝る時も眼鏡を外さない強い近眼、シューベルト自身が自分の容姿には自信がなく、常にコンプレックスを抱えていた。貧乏育ちのせいもあるが、服装には無頓着、風呂にも殆んど入らない、おまけに歯も滅多に磨かないので口臭がひどかったという。

一人前の音楽家になるまでは結婚どころではないと考えたシューベルトは毎日部屋に閉じこもって作曲に明け暮れる毎日だった。

代表曲

 ・魔王・・・歌詞は、ドイツの詩人ゲーテによる同名の詩『魔王』から採られたもの。熱を出した息子
    を医者に連れて行くため息子を腕に抱いて夜の闇を馬で駆け抜ける父親。息子は高熱にうな
    され、幻聴に襲われる。風に吹かれた枯れた葉や木々が、まるで魔王の囁きに聴こえるだ。
    息子は結局途中で息絶えてしまう。

 ・アヴェマリア・・・王から追われる身となった「湖上の貴婦人」ことエレン・ダグラスは、聖母マリ
    アに助けを求めて祈りの言葉を口ずさむ。アヴェは「今日は」の意味、

 ・セレナーデ・・・シューベルト歌曲の中で最も有名なものの一つ。恋人に対する切々たる思いを、マ
    ンドリンを模した伴奏の上に歌いあげる。

      YouTube  セレナード 

 ・野ばら・・・歌詞は、ドイツの詩人ゲーテによる1770年頃の作品。日本では、「童は見たり(わら
     べはみたり)、野中のバ
ラ」の歌い出しで広く知られている。牧師の娘と恋に落ちたゲー
     テ、しかしゲーテは無情にも、ゲーテとの結婚を望む彼女との恋愛を断ち切ってしまっ
     た。理由は勉学に励むためでもあり、また結婚による束縛を嫌ったためでもあると言われ
     ている。

                  YouTube     シューベルト 野ばら

 ・菩提樹・・・この歌曲では、失恋した若者が町を捨てて放浪の旅を続けていく姿が描かれており、
     全曲を通して疎外感や絶望と悲しみが強く表現されている。

 ・シューベルトの子守歌・・・シューベルトが15歳の時に亡くした母親への思いが切ないほどに込め
     られている名曲。

 ・「交響曲第8番 未完成」・・・シューベルトが人生をかけた交響曲のために、選びに選んで辿り着
    いたのがロ短調という調性だった。

                YouTube   交響曲第8番 未完成  

・ドビュッシー  フランス、1862年生まれ、独自の作曲を実行

 ・父親は陶器店を経営し、母親は裁縫師であった。5人兄弟の長男。一家は経営難のため母方の実家
  に同居。

 ・気難しい性格で、内向的かつ非社交的であった。また、女性関係においてのトラブルも絶えなか
  った。

 ・ドビュッシーは20世紀で最も影響力のある作曲家の一人としてしばし見なされており、西洋音楽
  からジャズ、ミニマル・ミュージック、ポップスに至るまで幅広く多様多種な音楽の部類に影響
  を与えている。

  日本の作曲家では武満徹がドビュッシーからの影響を公言している。電子音楽では冨田勲がドビ
  ュッシーの作品を多数取り上げ、編曲したことによって影響がもたらされている。

 ・ドビュッシーは、1899年に結婚したロザリー・テクシエ(愛称リリー)という11歳年下の妻が
  いたが、1904年に銀行家夫人で同い年のエンマ・バルダックとの仲を深め、ついには不倫の間柄
  となった。1905年7月17日に正式にリリーと離婚し、エンマを以降の生涯における伴侶とした。

  

 代表曲

『海』・・・「葛飾北斎の浮世絵にインスピレーションを得て作曲された作品」として紹介されることが
     ある。

                  YouTube     交響詩《海》(ドビュッシー)

『月の光』・・・テレビCMにもよく使われるとても有名なピアノ曲

      YouTube   月の光

『夜想曲』・・・耽美主義のアメリカの画家ホイッスラーの『ノクターン』と題された絵画のシリーズか
     ら着想を得た

『亜麻色の髪の乙女』・・・BGMでも使われることが多く、その柔らかな曲調は万人に受け入れられ、
     愛される結果となる

・メンデルスゾーン ドイツ、 1809年生まれ 38才没 神童 ユダヤ人

 ・富裕な銀行家の父、姉のファニーも有名なピアニストである。

 ・育った環境は知的なものだった。両親がベルリンにある自宅のサロンに画家、音楽家、科学者な
  どを頻繁に招いていたことから、人はその家庭の様子を「ヨーロッパが彼らの居間にやってく
  る」と記している。

 ・音楽だけでなく、メンデルスゾーンは美術、文学、語学、哲学も学んでいた。

  ・メンデルスゾーンに感銘を受けたゲーテ、そしてメンデルスゾーンはゲーテの詩の多くに曲をつ
  けている。

 ・メンデルスゾーンは早熟の天才であり、一度見た楽譜、一度聴いた音楽を完璧に記憶する能力を
  有していたと言う。

   ・多数の言語を自在に操り、青年になる頃にはドイツ語のみならず、ラテン語、イタリア語、フラ
  ンス語、英語を話してい
た。また詩作や絵画にも関心を持ち、多くの水彩画作品を残している。

 表曲

 ・結婚行進曲・・・メンデルスゾーンが弱冠17歳の時(1826年)に作曲した。

                      YouTube    結婚行進曲 メンデルスゾーン


 ・交響曲第3番「スコットランド」・・・イギリスの宮殿を見て、栄枯盛衰と世の無常を象徴するよう
         な廃墟を目の当たり
にして作った。瀧廉太郎の歌曲『荒城の月』(1901年作曲)
         に影響を与えたと言われている。

        YouTube  スコットランド

 ・春の歌・・・全部で48曲ある「無言歌」、『無言歌集』の中でも最も有名な曲で、楽譜の冒頭に 
         「春の歌のようにという
発想標語がある。

        YouTube  春の歌

・ブラームス ドイツ 1833生まれ

  ・J.S.バッハ、ベートーヴェンと共に、ドイツ音楽における三大Bとも称される。

  ・ベートーヴェンの後継者ととらえる人もおり、指揮者のハンス・フォン・ビューローは彼の
   『交響曲第1番』を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評した。

  ・ブラームスはベートーヴェンを崇拝、また古典派の作曲家モーツァルトとハイドンも敬愛して
   いた。バッハにも心酔。

  ・父は、市民劇場のコントラバス奏者だった。ブラームスの生家は貧しかったため、13歳のころ
   からレストランや居酒屋で
ピアノを演奏することによって家計を支えた。

  ・シューマンと家族的付き合いをした。シューマンの奥さんであったクララとは特に仲が良く恋
   人?と思われた。何人かとは付き合ったがタイミングが合わず生涯結婚はしなかった。

  ・『美しく青きドナウ』のヨハン・シュトラウス2世と親交があった。

  ・ブラームスの完璧主義は徹底していて、現存するごく一部を除いて完成した作品のスケッチや
   初稿はほとんど破棄して
しまうのが常だった。

  ・作品が人気を博して財政的成功を手に入れた後も質素な生活を好み、3部屋のアパートに家政婦
   と住んでいた。

 

 代表曲

 ・交響曲第1番作品68・・・ブラームス最初の交響曲として特に厳しく推敲が重ねられ、着想から完成
  までに21年という歳月を要した労作である。「ベートーヴェンの交響曲第10番」と絶賛された。
  サントリーのピュアモルト・ウイスキー「響(ひびき)」は、この『交響曲第1番』をイメージし
  て企画された商品だそうだ。CM曲にも使われていた。

 ・ブラームスの子守歌・・・この曲は、ブラームスが指導していた合唱団員の第2児出産祝いに贈られ
  たとされる。

 ・ハンガリー舞曲第5番・・・(らーら・ら~ら、ら~らら)超有名曲。

                     YouTube     ハンガリー舞曲第5番

・シューマン  ドイツ、1810年生まれ 

  ・裕福な家庭に生まれ、ピアニストの恩師の娘(ピアニスト)と結婚する。
 
 ・シューマンはベートーヴェンとシューベルトをこよなく尊敬していた。
  
・二人には8人の子供が生まれた。 シューマンが家庭を維持する経済的な重荷を背負いなが
   ら、大作を書いても予期した収入をもたらさず、疲労感に襲われて次第に神経衰弱気味になっ
   ていった。
  
・40歳ごろ、病気の進行に伴って彼の身体機能が犯され、動作、言葉、聴力などが均衡の取れ
   ないものになっていった。
  
・44才、病気の為錯乱状態になりライン川に身を投げたが助けられた。この時妻のクララは身籠
   っていた。家に連れ戻されたシューマンは再び精神病院への入院を希望し、2年間療養所に入
   る。
  
・シューマンの死因は、彼の20歳ごろに遊んだ梅毒が原因と言われた。
  
・シューマンは子供のころから晩年に至るまで日記を書き続けており、結婚後は妻のクララも共
   に交換日記をしていた。

 代表曲

 トロイメライ・・・シューマンのピアノの曲のなかで一番有名。『トロイメライ』は日本語に訳すと
  『夢』

 ・交響曲第1番『春』・・・ちょうどクララと結婚した時期と重なるのでシューマン自身も作曲家とし
  てジャンルの幅を広げようと野心的になっていた。

                  YouTube    シューマン: 交響曲第1番「春」

  世界三大指揮者

・カラヤン オーストリア、1908~1989、日本では「楽壇の帝王」

 ・34年間、世界一のオーケストラであるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・
  芸術監督を務めた。

 ・20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりで、その独自の音楽性と自己演出
  は「カラヤン美学」と謳われ時代の寵児にもなった

 ・1956年にはウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任。ベルリンとともに、世界の人気を二分す
  
両オーケストラを同時にたばねた。

 ・カラヤンは指揮者の職業病とも言える脊椎の持病に悩まされ続け、生涯に12回もの大手術を受
  けた。

 ・カラヤンは自分の求める響きが出るまで辛抱強く楽団員を説得していた。

 ・「音楽が大衆に媚びている」「音楽のセールスマン」などと批判されることもあった。

 ・細身の体を黒で統一された服装で包み、白いマフラーを長く垂らせたスタイルでスポーツカー
  や自家用ジェット機を自在に操る姿はダンディズムに満ち、既成の音楽家のイメージを一新さ
  せた。カラヤンの動作はスマートで美しく洗練され、目を閉じ手を静かにウェイブする姿は神
  秘的にすら見せることに成功し、その雰囲気に酔う聴衆も多く存在するようになった。

 ・ジェット機を乗り継ぎ世界中を飛び回って活動するという、昨今のスター指揮者の活動様式を
  始めた最初の一人だった。自家用ジェット機を保有していて、自ら操縦し別荘などへ行ってい
  た。

 ・無類の車好きでありスピード狂としても知られ、様々なスポーツカーや高性能車、高級車を所
  有し乗り継いでいた。カラヤンのスピード狂はスキーにも及び、直滑降の名手として山小屋の
  主人から「アルプスで1番速いダンナ」と呼ばれていた。

 ・カラヤンは、東京・赤坂にある日本有数のコンサートホールである「サントリーホール」の建
  設にも設計の段階から携わっている。サントリーホールのオープニングを祝う来日公演は、病
  気でキャンセルを余儀なくされ、弟子である日本人指揮者小澤征爾に代役がゆだねられた。

 ・ベルリンのフィルハーモニーホールに面するマテイキルヒ通りがヘルベルト・フォン・カラヤ
  ン通りに改称された。ザルツブルク空港で、ターミナルの一つが、カラヤンの飛行機好きにち
  なんで「ヘルベルト・フォン・カラヤン・ジェネラル・アビエーション・ターミナル」と命名
  された。

 ・釧路で日本人によって発見された太陽系の小惑星が、2007年9月26日、「カラヤン」と命名さ
  れた。

 ・カラヤンは三度結婚。一人目がオペレッタ歌手のエルミ・ホルガーレーフ(三年で離婚)、二
  人目がユダヤ系のアニータ・ギューターマンであり三人目がフランス人のモデルだったエリエ
  ッテ夫人。

小澤征爾  1935年生まれ、ウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた世界的な指揮者

 ・父小澤開作は歯科医師、満州国協和会創設者の一人で、同志で満州事変の首謀者となった板垣
  征四郎と石原莞爾から一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した

 ・1962年、井上靖の仲人により、三井不動産社長江戸英雄の娘でピアニストの江戸京子と結
  婚。その後離婚。

 ・白系ロシア人貴族の血を四分の一引くファッションモデル兼デザイナーで一時的に女優として
  も活動していた入江美樹と再婚。

 ・N響事件~小澤はこの事件の背景について「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、い
  ちいち団員に指図するやり方だった。でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。黙っ
  て全体を把握するのが指揮者だ。この違いに加えて僕は若造だった」との趣旨の発言で振り返
  っている。音楽観の相違であった。

 ・1972年、経営危機だった日本フィルについて「皇室が交響楽団のパトロンになってほし
  い」と昭和天皇に直訴したこともある。

レナード・バーンスタイン  1918~1990年

 ・ユダヤ系移民の両親の間に生まれ、ハーバード大学音楽科を卒業後はカーティス音楽院で学
  び、その後ニューヨーク・フィルの副指揮者になる。彼の在任中はニューヨーク・フィルの
  「黄金時代」と呼ばれ、このオーケストラの人気を高めた。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

・このオーケストラほど、機能性、自立性、自主性に溢れたオーケストラはない。現代のオーケストラの、いわば完成形と言っても間違ってはいない。絶えず、向上心を持ち音楽に接している姿勢は他にはない。1882年に創立されたベルリン・フィルは、その常任指揮者(カラヤン達)たちによって、世界一のオーケストラに成長してきた。

ベルリン・フィルも自主運営団体、彼らも自分たちの事は自分たちで決定する。最終的には楽員1票を持つ選挙で何でも決定する。常任指揮者と言えど団員と同じ1票しか持てない。自分たちで運営するという気概が良く表れていて、練習も、本番も凄いエネルギーを発散すると言う。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

・ウィーン・フィルはまた、音楽監督を置かないオーケストラである。次のシーズンに誰に指揮を任せるかも、自分たちで決定する。国宝級のオーケストラである。

 シカゴ交響楽団

 ・アメリカビッグ5の一つ、その中でも頭一つ抜け出した存在である。アメリカを代表するオーケストラだが、今ではアメリカに留まらず、世界最高峰のオーケストラの一つに数えられている。

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